常に高い志で自分にストイックに過ごしていたタカくん。
周囲の人は感じられなかったですが、本人は不安や葛藤をもって日々邁進していました。
現在では専門学校で英語の教師を務め、検定から基本英語・ビジネスシーンに適応した英語を生徒たちに教えています。
大学時代に休学をし、ワーキングホリデーでオーストラリアへ。その後、学生ビザで2度目の渡航。
2回目はTAFEで通訳・翻訳コースを修了さています。
日本で決意から専門学校での日々の意識、逆境をどう乗り越えていったのかをインタビューで聞くことができました。
生まれた場所、両親がいた異国の地、不思議な感覚
なぜ留学したのはなぜですか?
まず第一として、海外ってかっこいいなっていう漠然なイメージと高校時代から受験の英語は点数がとれてたので、英語が好きな感覚もありました。
きっかけは、大学3年生の就活の時期です。周りのみんなが就職の説明会やセミナーにに行き始め、就活を始めるかなと思った時に両親と今後のことについて真剣に話し合いをしました。
その中の選択肢の1つとして、海外の旅行はできるけど長い期間生活する体験は社会人になったら簡単には出来ないから、学生のうちに行ってみるのも良いのではないかと提案をしてくれました。
両親は昔、シドニーの日本人学校に勤めていた経験があり、私はその時にオーストラリアで生まれました。私自身は2歳になる前くらいまでの滞在だったので、当時の記憶はないです。
いくつかの選択肢の1つでしたが、その時に留学への気持ちが芽生えだしたのを覚えてます。私の場合は両親が海外生活の体験があり、理解があったため留学はしやすい環境だったので感謝しています。
なかなか留学への抵抗がある日本社会の中で、両親の理解があるのは助かりますよね。きっと同じように異文化の体験を肌で感じて、苦労もしてほしかったのでしょうね。
それからは海外生活への意欲が強くなり、留学を決意しました。
大学を約2年間休学して、最初の1年目は資金調達。
朝9時から夕方の5時まで働いで、また6時から12時まで働いてを週6のペースでやってました。大体月20万円稼いでましたね。1年間で約120〜130万くらい貯金できました。その後の1年間をワーキングホリデーの留学にあてました。
オーストラリアにした理由はあるんですか?
実は本当はイギリスにワーキングホリデーで行きたかったんです。イングランドサッカー、プレミアリーグのアーセナルというチームのファンでして。イギリスに行けば英語を学べて、サッカーも見れるという完全なる下心でした。でもビザ競争率が半端なくて、抽選で落選したんです。もう海外に行きたくないとさえも思いました。
なにか渡航前の目標はあったのですか?
英語は最低限、日常生活は喋れるようにはなりたい、生活に困らないような力はつけたいという漠然な目標はありました。
事前に勉強していったのですか?渡航前の英語力はどれくらいでしたか?
勉強は英語の教科書を読んだのと直前に何回か英会話に行ったくらいでした。
全盛期ではなかったですけど、大学受験で勉強していたのである程度の知識ありました。喋る英語は全然ダメでしたけどね。
渡航前に不安な気持ちとはありましたか?
具体的に何かはないですが、漠然な不安はありました。それでも両親の友達がいるから大丈夫という安心感と両親が住んでいた場所に、両親と同じ頃の年齢で行くんだなという感慨深さがありました。また1年間必死にアルバイトをしてお金を貯めたので、ようやく行ける気持ちの方が勝ってました。
いざ渡航になると思うのですが、出発当日は緊張しましたか?
3月11日、東日本大震災の次の日が渡航日だったんです。
留学の緊張以前に、飛行機がちゃんと飛ぶのかどうかの心配から始まりました。情報では福岡から東京は飛ぶけど成田からシドニーは分かりませんという状況だったのですが、とりあえず行ってみようと出発し、無事に渡航することができました。
ドタバタの出国だったのですね。やっとの思いでたどり着いたシドニーで最初にそんなことを感じましたか?
シドニーの空港には朝6〜7時ぐらいについて、日本で話していたエージェントの人が待っている予定だったのですが、現地にいなくて。
最初は空気が違うな、匂いが違うなと楽しんでいたのですが、3時間たっても来ないので、さすがにおかしいと思ったんです。事前にエージェントの方に渡された緊急コールのメモを開いて、公衆電話で電話しようとトライしました。その時点でもう泣きそうでした。
公衆電話も最初に番号を押してとマニュアル通りにかけても繋がらなかったんです。
初日からパプニングはパニックになりますよね。
21歳、初めての海外だったので、心のどこかで待ってみようと受け身の姿勢になってしました。
でも時間も時間になってきて、待ってたら一生来ない!自分から動かないとまずいと焦り出して。公衆電話のかけ方が分からないから、誰かに携帯を借りようと。
空港のCAさんや優しそうな女性に頼めばいいのに、なぜか筋肉ムキムキの白人男性に声をかけました(笑)パニックだったんだと思います。
それで「Can I use your phone?」と尋ねたら「OK!いいよ!」って快く貸してくれたんです。見ず知らずの日本人に貸してくれたと感動しました。
電話はつながったのですか?
借りた携帯でかけたらなぜかつながったんです。エージェントの人が地震の影響で誰も来ないだろうと迎えに来てなかったという衝撃の事実が発覚しました。
その時はありえないと怒りましたけど、今では貴重な経験だったなと思ってます。失敗も含めて行動したほうがいい、待ってたらだめなんだと考えるきっかけになりました。
ホストファミリーとの運命の出会い
衝撃のスタートでしたね。そのあとは現地でどのように過ごされたのですか?
最初はエージェントに手配してもらったホームステイ先で生活をスタートしました。
この家族との出会いが私の留学生活で一番の宝物になったのですが、ホストマザーとステップファザーがいて、3人の姉妹がいました。ホームステイを受け入れている家にもビジネスとして受け入れている家もあったりするのですが、この一家は本当の家族のように接してくれました。
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確かに、ご飯と場所だけを提供しますのビジネスで考えている家もあると聞いたことがあります。それだけは自分で現地で探せないので運が良かったことにつきますね。
私の場合は専門学校でメルボルンに行った最後の半年以外は、この家族とずっと一緒に生活していました。
英語を学びたい人はお金に余裕があればですけど、家族のように受け入れてくれるホストファミリーに出会えた場合はそこに滞在することを強くお勧めします。
親密なホストファミリーはまだ英語がつたないことを理解してくれていますし、間違った場合は英語を正してくれるんです。
現地のネイティブの人と過ごせるのは毎日が勉強で、先生が常にいる状況がつくれます。シェアハウスだとネイティブ同士ではないし、間違っていても理解できるから指摘はし合わないことが多いと思います。
恥ずかしい、間違えたらダメだ、自信が持てなかった
語学学校は通ったのですか?その学校を選んだ理由はありますか?
カプランという学校に通っていました。選んだ理由は、日本人が少なかったことと値段の具合ですね。
施設がきれいで設備が整っている学校も魅力的だったのですが、たまたま日本人が多く在籍していたので、候補から外しました。
かといって安くて授業内容が薄いのは嫌だったので、予算と環境のバランスを考えて決めたのが理由です。
日本人グループとつるまない事は意識させれていたのですか?
もちろん、辛い時や苦しい時は日本人の人とも話しましたけど、根本としてはオーストラリアにいるのだから日本でできないことしようよと律して日本人とは接さないようにしていました。
日本人と話す時は英語で話したりもしたのですか?
日本人同士で英語を喋る必要はないなと思ってましたけど、実際に日本語で話しかけても英語で答えてくる人もいました。
人それぞれで状況に応じた勉強方法があるのでお勧めしませんが、そこまで徹底して語学取得にコミットできる人は早く喋れるようになるんだろうなとも思いました。成長するか日本人に嫌われるかバランスも大切ですけど。1つの方法ではあると思います。
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学校ではどのように過ごされましたか?
授業は真ん中のインターミディエイトクラスでスタートしました。最後はアッパーインターミディエイトで卒業しました。
それでもスピーキングは自信がなくて苦手でした。ホストファミリーは理解があるので聞いてくれる前提ですが、レベルが上のクラスメイトや知らない人には”は?”の顔をされたこともありました。相手反応で自信を喪失していました。
知識はあるのにスピーキングは苦手だったんですね。
日本人の典型的なパターンだと自分でも思います。結局はシャイだったので完璧に話せないと恥ずかしいとか、恥を書きたくないと思う気持ちが先にでてきてました。
話す時はごもってたと思います。授業でパートナーと2人組で話す時は最初に「俺しゃべれないんだ」と必要がない保険をかけてました。あれは良くなかったと後悔しています。
友達と話すときに意識していたことはありましたか?
笑顔で第1印象を良くしようは意識していました。国は違えどそれは一緒だなと思っていたので。その部分は意識というよりか自然と思いつくままに行動していました。
それでもまだ自信がなかったので遊びに誘ったりとかはできなかったですね。遠慮せずに誘えば良かったなと思ってます。
自分の中で求めている語学力、絶対的な自信が欲しかった。
私が会った時はタカくんは話せてすごいな、うらやましいなと思いましたけどね。
日常会話では問題なかったのですが、完全に自信があって喋れてるような感じではなかったです。
卒業後にローカルのお店で働くこともできましたけど、1年目は満足のいく内容ではなかったと思っています。
ローカルの仕事も雇ってもらえましたが、結局は友人の紹介で入ったので、自分で見つけて勝ち取ったという達成感も薄かったです。職場はインド人と韓国人がほとんどで勉強にはなりましたけどね。
高みを目指して自分にストイックな性格なんですね。自信のありなしは別として、英語ができるようになった感覚はあったのですか?
大体滞在していて1、2ヶ月で最初は聞き取れなかった単語が聞こえてくるようになってきました。
生活していると定型文や決まり文句も多いのでみんな同じだと思います。技術面でいうならば最後の方は、対話で1つだけ単語が分からない時に、何て言ったんだろう?と頭の中の検索ワードにヒットしないんですが、発音でスペルは頭に浮かぶようになってました。今
でも海外ドラマを字幕なしで見ていて、分からない単語があった場合、綴りは分かるので検索はすぐできます。
そのリスニング技術は初めて聞きました!耳はかなり慣れていたんですね。持っていた知識と組み合わせてそんなことができるなんてびっくりしました。
それでも英語が理解できて、喋れるようになってきた感覚と慣れてきたのが1年目の感覚で、自信のなさからくる不安は払拭できてない状態でした。
新たなる目標設定、2年目に芽生えた自信とエピソード
それから2年目に突入するのですが、次は新たな目標があったんですよね?
休学していた大学を卒業して、2回目は学生ビザで留学しました。
英語力を活かして、通訳・翻訳の仕事をしたいと考えて、現地の専門学校に行こうと留学を決めました。また同じホストファミリーにお願いしてホームステイしていました。
TAFE(専門学校)に入るための条件はあったのですか?
TAFEに入るためには、指定された語学学校での専門コース卒業が必要でしたので、論文、プレゼンテーションの勉強をしました。
コースが終了した後は入学までに期間が余って、専門コースから一般のコースで授業を受けたらと勧められたのでコースを変更しました。その時に、「タカはアドバンスクラスね!」って、ノーテストで一番上のクラスに振り分けられた時は嬉しかったです。ここで自信がつきました!
志の高いタカさんでも、ついに自分が求めるよな語学力になってきたんですね。
自信がついたエピソードで言うと、様々な人種の店員がいるウールワースで買い物したときに、欲しいものを伝えて会話していたら「何人?日本人?学生?」と聞かれて答えると「英語の発音と語彙の能力から、現地の人だと思った」と言われたんです。
この日の帰りみちは嬉しすぎて笑みが止まらなかったのを覚えています。ホストファミリーや学校の先生とは違って、一生懸命聞き取ろうと構えてない人に対して、そう言ってもらえたのはグッときました。
専門学校(TAFE)での過ごし方とまさかのトラブル
その自信をもって入ったTAFEですが、どんなことを勉強あえたのですか?
最初の半年間は通訳のコースの勉強で、残りの半年間は翻訳のコースで勉強の予定でした。
通訳の授業では先生も生徒も多国籍で、こう言う場合はこう訳すの通訳テクニック、シュミレーションでの実践などの授業をしました。英語の勉強なのですが、逆に訳すときに使う日本語力のなさを痛感しました。
日本語も同時に勉強しました。翻訳も同様にパソコンを使っての実践の授業や、座学をしながらHow toを学んで、レポート提出をしていました。
予定通りにTAFEの期間を過ごせたんですね。
実はそうではなくて、かなり過酷なことがあったんです。
シドニーで半年通訳のコースを終了した後、そのまま翻訳のコースも同じ学校で受けられる話だったのですが、専攻する生徒の人数が足りないので、急に開校しませんって連絡が来て。ゆるいオーストラリアのあるあるなんです。
急にそんなことがあるんですね。それでも翻訳コースも修了できたんですよね?
そこからは怒涛の日々でした。どうしようかなと思って現地のエージェントに相談したら、メルボルンに似たようなコースがある専門学校を探してくれたんです。
でも入学には翻訳の課題とIELTS(アイエルツ)のスコアが6.5以上必要だったんです。さらに入学まで時間がなくてアイエルツの試験も1回しか受けれない状況で。とにかく勉強しまくりでした。選択問題のTOEICと違って、論文形式の問題など数倍も難しかったです。
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学生ビザなのでIELTSのスコアを取れなければ帰国っていう状況ですか?
そうだったんです。でも当時、ちょうど自信がついて油が乗っていたので、結果的にスコア7をとることができました。
方式が違うので全く同じ基準としては比較できないですが、スコア7は英検1級やTOEIC 945点(L&R=リスニングとリーディングだけの試験990点満点)のレベルです。
簡単に言いますけど、半端じゃないですね(笑)帰国後は通訳・翻訳の仕事につけたのですか?
帰国後、通訳・翻訳の仕事は求人がほとんどなく就くことはできなかったですね。
もともと狭き門ではあるのですが、圧倒的に日本語能力が足りなかったです。
それでも、その時の就職活動の経験が今となってはいい経験と思っています。最終的には日本の専門学校の英語教師に就くことができました。基本の英語から、検定、ビジネスシーンで使う英語など多岐に渡って教えてます。留学で培った語学力と体験を生徒に伝えたいと授業しています。
急に話変わるのですが、現地にいた時太りましたよね?留学すると太るとかよく聞くので参考にと思いまして。
めちゃくちゃ太りました。ホストマザーが出してくれる食事は、種目が多めで健康的だったのですが、ホストマザーに好かれるためにめちゃくちゃ食べました。美味しかったのは勿論ですが、母親っていっぱい食べてくれたら嬉しいでしょって思ってました。今は67キロくらですが当時は80キロ後半でしたね(笑)
生活していたシドニーの治安はどうでしたか?
2年間通じて、基本的には治安は良かったですけど、仕事帰りのバス停で若者たちの集団にiphoneを盗まれそうになったりはありました。
夜で誰もいなかったので怖かったですよ。もっと怖かったのは同じバス停で、ナイフをもったおじさんが「刺すぞ!」って脅してきたことでした。
本当は乗るはずだった最終のバスにそのおじさんが乗るので乗らずにやり過ごしました。バスの中からニヤっと笑ってきた時はゾッとしました。
いくら安全と言われているオーストラリアでも夜だったり治安の悪いと言われている場所には近づかないようにしたほうがいいです。自分の身は自分で守らないといけないですよ。
大切な2つ目の家族、一生家族
2年間の留学で特に思い出に残っていることはありますか?
私の場合はホストファミリーに尽きます。全てはあの家族に会えたから充実させることができたと思っています。
特にホストマザーですが3姉妹も含めてです。毎日一緒に生活して、引っ越しも一緒にしました。
本当の家族のように接してくれました。かけがえのない、2つ目の家族ができました。つらいときも楽しい時も、酸いも甘いも全ての時間を共有してくれましたし、感謝しても感謝仕切れないです。あの家族に会えたこと、それだけで意味がありました。
家族の深い絆は一生ですもんね。素敵なお話ありがとうございました。
これから留学される方や、留学中の人に伝えたいことはありますか?
伝えたいことは3つあります。
1つ目は今でも学校で、生徒に伝えているのですが、盛大に間違えてくださいと言うことですね。自身の体験から得た教訓でもあるのですが、失敗するチャンスを逃さないでほしいです。「わかりません」で逃げないでって思います。挑戦して失敗してそれを修正して初めて成長すると思うので。
テレビ番組で出川さんが海外で英語で解決していく、「出川イングリッシュ」があると思うんですけど、あれなんかはまさに象徴ですよね。私もあのメンタルが欲しいとすごくうらやましいです。
2つ目は、渡航して最初からバイトは厳しいので、お金の余裕は多少はあったほうがいいと言うことです。
学生での留学だと難しいと思うのですが、2〜3ヶ月の生活の余裕はあったほうがいいと思います。オーストラリアは物価が高いので、学校通いながらアルバイトすることになり、疲れて授業を寝坊してと悪循環に入ってしまいます。
お金の余裕は時間の余裕にもなるので、海外生活をしにきたのであれば中途半端にならないようにしたほうがいいですね。
最後は具体的な目標を持っていったほうがいいと言うことです。
英語喋れるようになりたいの目標もいいですが、英語は3ヶ月も経てば誰だってある程度喋れるようになるので、漠然とした目標だと上を目指さなくなる傾向があります。
TOEIC満点やIELTSのスコアなどの数字で見えるようにしておくとモチベーションが落ちにくいです。語学じゃなくても、全部の都市制覇などの目標を立てると日々の生活が変わるようになりますよ。
長い時間のお話ありがとうございました。まだ話し足りないですね!今度また詳しくお話しできればと思います。